コーヒーを吹き出しました。

nonotan152005-02-14


 巡回してて発見しました。これは是非とも目に通すべきです。皆さん、あの豊臣秀吉でさえ成しえなかった偉業に挑もうとする人間が400年ばかりの時を経て現われたのです(※1)。(この人の家柄が分からんが、多分華族以上の出ではなかろうと勝手に推測)


 源頼朝以来、征夷大将軍職は、名目上源氏姓でなければならなかったという点は、今日でも徳川氏なり細川氏なりに頼んで養子にでもしてもらえば良しとして、源平交代説をどのようにクリアするかが重要になってくるのではないでしょうか?↑においては触れらてないようなので、ここで敢えて触れてみます。


 はっきり言って、天皇陛下より任官されさえすればそれで終わりなのですが、江戸期までの天下人は皆この源平交代説を気にしていたようで、足利の後をうける織田信長でさえ、源平交代説を意識するあまり平氏の末裔を名乗り、家康も源氏の新田氏の末裔と称したと記憶しております。よって、この点も源氏姓の問題とともに考える必要はあるでしょう。そうすると、家康が織豊両政権を併せて「平氏」としたように、明治政府以来の政権をまとめて平氏と解釈し…ってムリだ。わけわかんねー。


 書いてて思い出したけど、信長って確か本能寺の変の前年あたりに、朝廷から太政大臣征夷大将軍の両方とも推任されてたんじゃなかったかな?そのちょっと前に右大臣を辞任したっていう記憶があるから、別に晩年(でいいのか?)の信長は役職や官位にゃこだわってなかったな。足利も利用価値が無くなってから切られたし(※2)、信長がもうちょっと存命してたら、今日天皇家は存在しなかったかも…。こういうふうにみると、源平交代説なんてのは大して重要ではないか…。
 

  • ちょっと調べてみる

手元の資料には(ちょっと胡散臭い)信長43歳以降には朝廷側の推任だけ、未拝領ってのも含めて、役職は内大臣から太政大臣征夷大将軍。位階は正三位から正二位(実際に太政大臣を拝領していたら従一位か?)と、5年の間に凄いことになってるから、これがいわゆる「位打ち」ってやつなんだろうか?


 まあ、あんまり日本史に詳しくないからおいらの文章は滅茶苦茶になっちゃったけれど、この質問者の方って夢があっていいですね。この方が開幕した暁には、おいらは鎮西探題にでも任じてもらおうかな(笑


さてと、勉強しよう。

  • 追。

源氏の家ってどれだけあったっけな?武田、土岐、今川、足利、一色、斯波、佐竹、細川…。
畠山、吉良ってどうだったっけな?覚えてないや…。


※1
源→北条(平)→足利(源)→織田(平)の流れを意識するあまり、将軍職に就くために足利義昭に猶子にしてもらおうとたのんだが、義昭が血の卑しさを嫌い断られた。そいで近衛家の猶子になった。んじゃなかったかな?

※2
さすがに反織田連合を組んだからというのではなく、足利将軍以上の影響力を持つ天皇家とのつながり(信秀も銀を寄進してたらしいが、実質的なつながりはやはり上洛後とみなすべきではなかろうか)によってのものと考えてます。足利将軍が必要ならば懐柔してうまく使ったのではないでしょうか。